鈴木康友(野球・巨人)を蝕んだ骨髄異形成症候群は生存率40%!?

高校野球の名門校・天理高校を卒業後、
ドラフト5位指名で読売巨人軍に入団した鈴木康友氏。
現役引退後は、コーチにつくなど野球の仕事をされていましたが、
ある年、血液の難病が鈴木氏のカラダを蝕みました。
一度は死を覚悟したという鈴木氏のプロフィールや、
彼を蝕んだ血液の難病についてまとめていきます。

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鈴木康友 巨人入団はアノ長嶋茂雄氏に直接口説かれたから!?

 

[出典:朝日新聞デジタル]

 
氏名:鈴木 康友(すずき・やすとも)
出身地:奈良県五條市
生年月日:1959年7月6日(59歳)
身長:180cm
体重:84 kg
 
現役時代、巨人、西武、中日と渡り歩き、
”いぶし銀のユーティリティプレーヤー”として鳴らした鈴木康友氏。
 
鈴木氏は高校時代、高校野球の名門・天理高校に在籍し、
春夏合わせて4度、甲子園に出場しました。
1975年(当時高校1年生)、夏の甲子園には控えの内野手として出場。
当時、強打の大型遊撃手として知られ、2年生で四番打者となりました。
1976年(当時高校2年生)の春の選抜では、2回戦で福井高に敗れ、
同年夏の甲子園では3回戦で石川星稜に惜しくも敗退してしまいました。
 
鈴木氏がプロ野球関係者の注目を集めるようになったのは、
1977年(当時高校3年生)の春の選抜でした。
対作新学院戦で放った中越えの特大ホームランで注目を集めまたのです。
この大会は準々決勝に進出しましたが、中村高に敗退。
同年夏は、奈良県予選準々決勝で中学時代の同級生、
智辯学園の山口哲治氏に完封され、甲子園出場とはなりませんでした。
 
強打者として、名を馳せた鈴木氏でしたが、
高校卒業後は大学進学の意志が強かったため、
77年の春の選抜で球界関係者の注目を集めながらも、
同年のドラフト会議では、各球団とも上位での指名は見送られました。
 
しかし、ドラフト5位で読売ジャイアンツが鈴木氏を指名。
高卒でドラフト5位指名ながら、当時の監督であった長嶋茂雄氏が
鈴木氏の獲得のために、自ら鈴木氏の自宅まで出向いて口説き落とすなど、
巨人軍に入団する前から大注目されました。
また、入団時には高卒ルーキーでありながら、背番号5という異例の一桁が与えられたのです。
 
アノ大スター・長嶋茂雄氏自らが口説き落とした鈴木康友氏。
大学進学という強い意志があったにも関わらず、
その熱意に負け、プロ野球界入りした鈴木氏。
実は、このアツいエピソードには大スター長嶋氏らしい”オチ”があり、
チームでの初顔合わせで長嶋監督に挨拶に行った際、
「おお、調子はどうだ?(同期入団の)伸良」
と、勘違いされたという逸話が残っているのです。
 
 
ドラフト5位指名、異例の背番号一桁の高卒ルーキーとして注目を集めた鈴木氏でしたが、
一軍の試合に初出場したのは、入団から3年目の1980年でした。
遊撃手を中心に、内野のユーティリティプレーヤーとして徐々に出場機会が増えていきましたが、
1984年のオフシーズンに、鴻野淳基氏とのトレードで西武ライオンズに移籍するも、
出場機会に恵まれず、三塁手の穴埋めに悩んでいた中日ドラゴンズが遊撃手鈴木氏を獲得。
1986年のシーズン開幕直前に市村則紀氏とのトレードで中日に移籍となりました。
 
同年は113試合に出場し打率.234ながら11本塁打を放ち、
セ・リーグ最多の35犠打を記録して遊撃手のレギュラーに定着しました。
ですが、翌年にはまた出場機会に恵まれず、準レギュラーに転落。
1990年のシーズン途中には、北村照文氏との交換トレードで西武に復帰となりました。
 
復帰後は、主に終盤の守備固めでチームを支え、
1991年の日本シリーズでは、逆転日本一を果たす原動力ともなりました。
しかし、1992年限りで現役を引退してしまいます。
 
引退後は、西武、巨人、オリックス・ブルーウェーブ、楽天の
守備、走塁、ベースコーチを歴任。
また、2005年からはテレビの野球解説者やスポーツ新聞の野球評論家をしながら、
2007年からはBCリーグ・富山サンダーバーズの監督も務め、
就任から1年後の2008年シーズンに、チームをリーグ優勝に導きました。
 
2017年1月24日に四国アイランドリーグplus・徳島インディゴソックスの野手コーチに就任。
2017年のシーズンに徳島はリーグ優勝とグランドチャンピオンシップ優勝を達成。
しかし、チームを優勝に導いた首脳陣でもある鈴木氏でしたが、
同年11月18日に契約満了を理由に退団。
実は、この時すでに鈴木氏のカラダをアノ病魔が蝕んでいたのです。
 
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鈴木康友を襲った骨髄異形成症候群は血液のガン!白血病公表の池江離花子に送っていた激励!

 
では、ここからは鈴木氏のカラダを蝕んだ骨髄異形成症候群についてお話していきます。
ひと言で説明すると、骨髄異形成症候群とは、血液のガンです。
血液のガンと聞いて多くの方がイメージするのは、
競泳日本代表池江離花子選手が闘病中である事を発表した”白血病”ではないでしょうか?
 
骨髄異形成症候群とは、myelodysplastic syndromeを略してMSDとも言われ、
赤血球、白血球、血小板の3種類の血液細胞の元となる、
【造血幹細胞】に異常が起こる病気です。
 

 
この造血幹細胞が正常に機能しなくなると、
健康な血液が生成されなかったり、
必要な血液量が血液細胞を創り出すことだできなくなり、
様々な全身症状が現れます。
 
例えば、正常な赤血球が生成されないと、
酸素を全身に運ぶ機能が低下し、貧血症状が現れたり、
正常な白血球が生成されないと、
外部からのウイルスや菌と闘う機能が低下し、感染症に罹患しやすくなってしまいます。
また、血小板の量が少なくなってしてしまうと、
出血した際に止血作用が低下し、出血状態が続きやすくなってしまいます。
 
鈴木氏は、四国アイランドリーグplus・徳島インディゴソックスの野手コーチに就任していた
2017年夏頃から体調を崩しており闘病生活に入っていました。
当時、鈴木氏は7月になって久々にグラウンドに出てノックをしたらいつになく息が切れがあったと言います。
また、朝のゴミ出しをする際に少し歩いただけで『ゼーゼー』と息切れするようにもなっていたそうです。
さらに、家族を四国に呼んで愛媛の松山城を見に行ったときには、
お城の階段で、周りのお爺ちゃん・お婆ちゃんに追い越されたことも。
この時はまだ自分が血液のガンと言う大病を患っていると思っておらず、
呼吸器系の病気だと思っていたそうです。
 
しかし、あまりにも続く体調不良。
それを心配した家族の勧めもあり、ようやく鈴木氏は病院へ行き検査を受けました。
そこで担当してくれた医師は鈴木氏の検査結果を見て、
「鈴木さん、よく立っていられますね」と驚かれたそうです。
血液検査の数値は極度の貧血状態を示し、すぐに施設の整った大病院で再検査を受けました。
そして鈴木氏は血液のガンである「骨髄異形成症候群」と診断されたのです。
 
 
骨髄異形成症候群の治療法はいくつかあり、
化学療法や、不足した血液細胞を輸血で補う支持療法があります。
しかし、これらの治療は重い副作用があったり、
骨髄異形成症候群の治癒というのが難しい場合があります。
 
唯一、骨髄異形成症候群の治癒が期待できる治療法として、
造血幹細胞移植という治療法があります。
鈴木氏はこの造血管細胞移植を受けたのです。
 
造血管細胞移植で使われるのは、
白血病で行われる骨髄移植とは異なり、
赤ちゃんと母体を繋いでいるへその緒から採れる臍帯血移植を行います。
鈴木氏は2018年3月に臍帯血移植を受けました。
しかし、いくら治癒が期待できる治療法とは言っても、
病気が治る確率は4~5割と医師から伝えられた鈴木氏。
当時は、治療のためにすでに服用していた薬の副作用も辛く、
体内では何だか戦争が起こっている感じがあったと言います。
本当に治るのか、不安な日々を過ごしていたそうです。
 
 
病気が治る確率は4~5割と宣告された鈴木氏。
85キロあった体重は一時、65キロ近くまで落ちてしまいましたが、
移植後の経過は良好で、移植から3ヶ月後の6月末に退院。
その後、検査の数値も正常に戻り、仕事の再開も許可されました。
2018年10月19日、立教新座高等学校野球部の非常勤コーチに就任しました。
また、2019年からはJ SPORTSの野球解説者に13年振りに復帰。
さらには、東京スポーツの野球評論家としての活動を再開しました。
 
一度は死を覚悟した鈴木氏。
先日、白血病闘病中であることを公表した競泳の池江離花子選手。
この時、鈴木氏は自分のことのように胸を痛め、彼女にエールを送っていました。
 

「この病気の恐ろしさについては分かっているだけに言葉を失いました。
でもトップアスリートである池江選手ならば、
強い精神力でこの難病に勝てると信じています。
絶対に克服できます!」

 
同じ血液の病気を患った鈴木氏だからこその力強いエールがそこにはありました。
 

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